Home / ホラー / にくゑ / 第2章 吉川医師

Share

第2章 吉川医師

last update Last Updated: 2025-11-15 13:14:33

 朝の光が診療所の窓を薄く染める頃、吉川直樹は目を覚ました。

 布団から這い出ると、足元で何かがカサリと音を立てた。昨夜読みかけの医学書が床に落ちている。ページが折れ曲がり、栞代わりに挟んだレシートが半分ちぎれていた。

 階下へ降りると、診察室の机の上にも書類が散らばったままになっている。昨日の問診票、薬の発注書、それに村役場からの連絡文書。整理するつもりでそのまま眠ってしまったのだった。

 洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の髪は案の定、後頭部が跳ねている。櫛で撫でつけても、すぐに元の形に戻った。

 洗面を終えて机の書類を揃え始めたところで、戸口が軽く叩かれた。

「先生、朝ごはんを少し持ってきたんですけど、よろしいですか?」

 扉を開けると、榊千鶴が味噌汁と小鉢を載せた盆を抱えて立っていた。

 榊千鶴。

 二十代の終わり頃と思われる、美しい女性だった。半年ほど前に失踪した夫の後を継いで、一人で商店を切り盛りしている。本来なら人恋しい年頃だろうに、隣に住む独身の医師の世話を、まるで弟でも見るような調子で焼いてくれる。

「あ、おはようございます」

 吉川は慌てて机の上の書類を揃えようとした。その動きを追うように、千鶴の視線が散らかった机の上に止まった。

「また遅くまで仕事をしていたんですね」

 申し訳なさと有難さが同時に胸に差し込み、吉川は言葉を探した。

「いえ、その……」

 千鶴は困ったような笑みを浮かべた。

「ちゃんと食事は取りましたか? 昨夜もずっと診察室の電気がついてましたし」

 吉川は思い出した。確かに夕方頃、千鶴が様子を見に来てくれたような……気がする。だが、その時は薬の在庫確認に夢中で、適当に返事をしてしまった記憶がある……ような気がする。

「すみません。ちゃんと……」

 嘘をつこうとして、やめた。昨夜の夕食は、戸棚にあった缶詰だけだった。

「今朝のお味噌汁は、取れたての山菜ですよ。おにぎりもありますから。よろしければ」

「ありがとうございます。でも、お構いなく」

「もうありますから……ね!」

 千鶴はそう言うと、籠を置いて商店の中へ戻っていった。

 吉川は溜息をついた。申し訳なさと、ありがたさとが入り混じる。こんなに世話をかけるつもりはなかった。――だが、かつて事故で夫婦を救ったことを思えば、千鶴が恩義のように気を配ってくるのも無理はない。とはいえ、こんなに世話になるつもりはなかったのだが。

 まるで生活破綻者の弟を面倒を見る姉のようだ、と吉川は密かに憤慨する。もっともどう見ても彼は――医者としての腕はさておき、生活破綻者だったのだが。

 診察室の机を片付け始める。問診票を揃え、薬の発注書をファイルに綴じる。その間にも、隣から味噌汁の匂いが流れてきた。出汁の効いた、やさしい匂いだった。

 午前九時を少し回った頃、診療所の扉が叩かれた。今日は転校生の健康診断を予定していた時間だ。

「どうぞ」

 扉を開けると、一人の少女が立っていた。制服は少し大きめで袖が手首を隠し、肩にかかる黒髪は緊張で落ち着きなく揺れている。まっすぐこちらを見るようでいて、すぐに視線を逸らす。呼吸は浅く、膝に力が入りすぎているように見えた。

 吉川は彼女の名を思い出す。矢野梓。東京から転校してきたばかりだと聞いている。

「矢野梓さんですね。体調はいかがですか」

 吉川は微笑みかけ、問診票に目を落とした。几帳面な字で隅々まで埋められている。既往症はなし。

「東京にいた頃は、よく体調を崩していました」

 梓がぽつりと呟く。

「でも、ここに来てからは嘘みたいに元気で。頭痛も貧血も、すっかりなくなったんです」

 よく聞く話だった。村に来た人々が口を揃えて語る言葉。空気がいいからか、水が合うからか。

「そうですか。それは良かった。環境が合ったのでしょう」

 血圧、体温、脈拍を測る。どれも正常値だが、脈拍がわずかに早い。緊張のせいだろう。聴診器を当てると、心音も規則正しく響いている。

「では、念のために血液検査もしておきましょう」

 そういうと梓の身体がこわばった。困ったな、あまりこの診療所に苦手意識を持って欲しくない。

 思いながら採血の準備をしていると、戸口が軽く叩かれた。

「先生、今朝のお味噌汁、薬味を入れ忘れていて……」

 千鶴が小皿を手に入ってきた。その姿を見て、梓が目を瞬かせる。

「榊商店のお姉さん……どうしてここに? え、お二人って……そういう?」

 千鶴の頬にさっと赤みが差し、視線が宙をさまよった。

「ち、違うわよ。ただ隣だから……」

 吉川は顔を上げず、カルテに視線を落としたまま短く答えた。

「違いますよ?」

 そういった吉川の顔を、千鶴が軽くにらむ。

 梓は小さく笑い、診察室の空気がわずかに和んだ。

 千鶴は咳払いをして小皿を机に置いた。

「あなたは転校してきた梓ちゃんね。定期検診?」

「はい、私だけまだだったので」

「そう、それじゃまた、クラスの子たちと一緒に買い物に来てね。榊商店をどうぞごひいきに!」

 ご贔屓もなにも、この村で雑貨を買おうとしたら榊商店を使うしかないのだが。梓はクスリと笑みを漏らす。

 その場に微笑みを残して、千鶴は診察室を後にした。

 梓の気持ちを和らげてくれた千鶴に感謝しつつ、吉川は診察に取りかかった。特に異常は見当たらない。

 そして採血をはじめる。針を刺した瞬間、梓は顔を歪めた。痛みに弱いのかもしれない。

「少し、気分が悪くなりませんか?」

「いえ、大丈夫です」

 梓は少し眉をしかめながら答える。

 ――採血を終えると、梓は小さく頭を下げた。

「ありがとうございました。結果はいつ頃分かりますか?」

「一週間ほどかかります。街の検査機関に送りますので。何か異常があれば、すぐにお知らせします」

 診察室の扉が閉まる音。

 静寂が戻ってくる。

 窓の外で、梓の足音が遠ざかっていく。

 小さな影が診療所の前を過ぎ、坂道へと消えていった。

 久しく感じなかった、都会の匂いを吉川は梓から感じていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • にくゑ   第9章 日記

     村の夜道を歩きながら、梓はまだ唇に清音の温もりを感じていた。  初めての口づけ。 短く、けれど永遠のように長い時間。 清音の冷たい指先が頬に触れた瞬間、世界が変わったような気がした。 足取りは軽やか、というより地面に触れているのかどうかもよくわからない。頭の中は清音の面影でいっぱいで、家までの道のりも夢を見ているように過ぎていった。 玄関の戸を開けて、靴を脱ぐ。いつもの動作なのに、全てが特別に思える。清音が愛してくれている。私も清音を愛している。それだけで、この小さな家さえも輝いて見えた。「ただいま……」 誰もいない部屋に声をかけて、梓はくすりと笑った。母がいた頃の癖が、まだ抜けない。でも今夜は寂しくなかった。胸の中に清音がいるから。 居間の電灯をつけて、梓は畳の上にごろりと横になった。 天井を見上げながら、さっきの出来事を反芻する。 清音の瞳の色。少し震えていた睫毛。唇が重なる瞬間の、あの静寂。「はぁ……」 大きなため息が漏れる。幸せすぎて、どうしていいかわからない。 このまま天井を見つめていても眠れそうにない。梓は身を起こし、せめて布団を敷こうと押し入れに向かった。 でも、浮かれた足取りがいけなかった。 床の間の前を通りかかった時、畳の縁に足を取られてしまったのだ。「わっ!」 バランスを崩し、床の間に手をついて体を支える。 その時、指先に違和感があった。「あれ……?」 床板の一部が、わずかに浮いている。 普段なら気づかないほどの、ほんの小さなずれ。でも確かに、他の部分とは違っていた。 梓は首をかしげながら、その部分に指をかけた。すると、板がすっと持ち上がった。「隠し……?」 床板の下に、小さな空間があった。 そこに、古い革表紙の手帳のようなものが何冊も入っている。 梓の胸に、嫌な予感が走った。 さっきまでの浮かれた気分が、急に冷めていく。 手を伸ばして、それを取り出す。重みがある。長い間、誰にも見られることなくそこに眠っていたのだろう。 表紙を見ると、かすれた文字で書かれていた。 ――『弓子』 母の名前だった。 梓の手が震えた。 これは母の日記だ。東京に出る前の。 日記は全部で七冊。どれも表紙に数字が書かれている。 でも、どうしてこんなところに隠されていたのだろう。  一番下にあった

  • にくゑ   第9章 二人

     空は黄昏に沈み、村の家々にぽつぽつと小さな灯りがともり始めた。 梓は歩幅をわずかに広げた。鞄の中で、文庫本が小さく揺れる。 ページは裏切らない。 そして今は、もうひとつの灯りがある――清音の手の温度。 その両方を胸の中で抱き合わせながら、梓はまっすぐ、家へ向かった。 清音に会いに行く。話をする。 信頼は、盲目である必要はない。 ――清音に、確かめないと。きっと彼女は全てを知っている。 その決意が、心の底で静かに燃え続けた。 家路を歩く梓の前に、細い人影が姿を現した。 風になびく長い黒髪。黒曜石のような瞳。人形のように整った顔。 会いたい、話がしたい。そう思って歩いていたら、そこにいてくれた。これは運命だとしか思えない。 様々な心配事、不安なことがあるにせよ、その姿を見ると、梓の胸は高鳴る。 太陽は稜線に沈みかかり、気の早い夏の虫たちがリーリーと鳴き声を上げている。 世界をただ茜色に染める光の中、二人は向かい合った。「――清音」「梓……貴方のことが気になって……」 そう語りかける清音は、本当に梓のことを心配している様子を見せていた。 学校で人目がある時はまるで違う、取り乱しているかのような様子を。 そんな清音の姿は見た梓の心に波紋が広げた。ああ、こんなに私のことを心配してくれている。愛されているのかも知れない。梓の心中にほの甘い満足感が満ちてゆく。しかしその感情を振り切るように、梓は口を開いた。「……どうして、誰も美穂と健太のことを覚えてないの?」 声はかすれていたが、芯は固い。「昨日まで一緒にいたのに……清音まで、忘れたふりをするの?」 清音は立ち尽くし、睫毛の影を震わせた。 「……仕方なかったの」 その一言は、鋭い針のように梓の胸を突き刺す。「仕方ない? そんな言葉で済ませるの?」 梓は立ち上がり、机が軋んだ。「あなたが……あなたが何かしたのね? みんなの記憶を……!」 清音の肩が震えた。沈黙。 その沈黙こそが答えだった。「やっぱり……!」 梓の声が裏返り、涙が滲む。「清音まで、私を一人にするんだ。信じたのに……清音だけは違うと思ったのに!」「違う!」 清音の叫びが教室に響いた。 梓の涙を震わせ、空気を震わせた。「私だって苦しかった! 美穂も健太も、友達だった。忘れさせるなんて、本当は

  • にくゑ   第9章 追想

     ――まただ。また一人だ。 その言葉が心の奥で何度も反響する。 ――時は遡る―― そう、あの日は雨だった。 目を閉じると、遠い雨音が蘇る――東京の通学路、アスファルトを叩く雨。黄色いビニール傘の内側で世界が円く切り取られて、そこだけ薄明るい。梓は鞄を胸に抱きしめ、制服の袖で手首を隠すくせを直せないまま、校門をくぐる。  それはまだ梓が中学生の頃。受験まではまだ一年の間があった。 ――昼の放課、廊下の突き当たりで男子が立っていた。肩越しに雨上がりの太陽が差し込み、顔だけが明るい。「……好きです」 ぎこちない言い方。 梓は喉の奥がひゅっとすぼまり、恐怖に似た波が胸の底からせり上がってくるのをどうにもできなかった。 幼い頃から父を知らないせいばかりでもないだろうが、梓は男性が苦手だった。 まして、まっすぐな感情をぶつけられると、どうすればいいのかわからない。「……ありがとう。でも、ごめんなさい」 梓は相手の目をまっすぐ見て言った。怖かったけれど、曖昧にしたくなかった。「どうしてかな?」 困った表情。やさしい声。 ――それでも、梓は言葉を選んだ。「あなたのことをよく知らないし、私も自分の気持ちがよくわからないから」 男子は困った笑顔をうかべたまま、そっか、と言った。梓は会話の後、その男子生徒がよく女子たちの噂に上っているバスケット部のキャプテンで上級生だったことを思い出す。 夕方、教室の空気は少しだけざらりとしていた。クラスの女子たちの視線が、梓に刺さる。他愛のない噂が、手のひらの砂のように目の前を流れた。「感じ悪いよね」「あれで断るんだ」誰かが見ていたようだ。 その翌朝。 教室のドアを開けると、空気がピンと鳴った気がした。「おはよう」 机に腰かけると、表面に油性ペンで書かれた字があった。《どろぼうねこ》 最初はカバンの角で擦れば消えるかと思った。けれどインクは木目に入り込み、指先に黒が移るだけだった。「梓ってさ」 後ろの席から、わざと聞こえる声。「顔だけいいよね。中身は、人の彼氏とる泥棒のくせに」「“彼氏”でもなかったじゃん」「そういうとこ、うざ」 笑いが、耳の後ろをかすめる。笑顔の形をした刃物が、鈍く皮膚に食い込む。 彼女は友達だった。友だちだった筈だ。放課後の購買でパンを分け合って、「おいしいね」と笑っ

  • にくゑ   第9章 いなかった子供たち

     昨夜の光景が、まだ梓の胸に鮮やかに残っていた。  谷に架かる吊り橋の上を、美穂と健太が並んで歩いていく。月に照らされた横顔はどこか晴れやかで、振り返って小さく手を振った梓に、二人は笑みを返してくれた。 ――街に行く。危険な道だけれど、きっとたどり着ける。無事に帰ってきて、また笑い合える。梓はそう信じて見送った。 翌朝、分校の一室には、初等部から高等部までの子供たちが集められていた。合同授業の日で、狭い教室はざわめきと光に満ちている。窓辺には夏の陽が差し込み、木の机の天板を白く照らしていた。「では、出席をとるぞ」 楢崎先生が名簿を開いた。丸眼鏡の奥の目は柔らかく、口元にはいつも通りの笑みが浮かんでいる。 まず初等部。幼い声が順々に「はい」と返っていき、教室に元気な声が響く。  やがて高等部の番となった。生徒は五人しかいない。呼ばれる順番はいつも決まっていた。  ――虚木、林田、森谷、根元、矢野。「虚木」 「はい」 清音の澄んだ声が響き、教室が一瞬だけ静まる。「根元」 「はーい」 あゆみが元気な声で手を挙げて応える。「矢野」 「はい」 自分の番だ。梓は慌てて声を張った。  ――そこで名簿は閉じられた。「以上」 梓は瞬きをした。――おかしい。  いつもなら清音のあとに、美穂、健太の名が呼ばれるはずだ。だが今日は飛ばされている。欠席とすら告げられなかった。「あの、先生」 思わず声が出る。「森谷さんと林田さんは……今日は欠席ですか?」 先生は首をかしげ、笑顔を崩さない。「そがん子は、最初からおらんじゃろう」 その言葉を合図にしたように、初等部の子供たちも、高等部の同級生も一斉に頷いた。 「そうたい」「おらんとよ」「そがん子はおらんかった」  揃った笑顔と声が、教室を満たす。 梓の背筋に冷たいものが走った。  ――そんなはずはない。昨日まで、隣で笑っていたのに。  胸に重たいものを抱えたまま席に戻ると、隣から小さな声がした。 授業は粛々と進み、教室にいる誰一人として美穂と健太のことを話題には出さなかった。机も二つ空いているというのに。初等部の子供たちもあゆみも清音も、先生たちでさえも。 そして一日の授業が終わる。  梓は席を立つ気にもなれず、教室の机にうつ伏していた。頭の中を疑問が

  • にくゑ   第8章 記録と決意

     窓の外は蝉の声が満ち、陽は高く昇っていた。  だが診療所の中は、夜の残滓のように暗く淀んでいた。 千鶴は腕を押さえ、俯いたまま震えている。  その耳の奥には、まだあの少女の呻きが残響していた。  いや――それ以上に、得体の知れない声が微かに混じっていた。  吉川には聞こえない、千鶴だけの声。「……宋次さん?」 かすかな呟きが漏れる。それは失踪した千鶴の夫の名前だった。  それは彼女自身が驚くほど自然に口をついて出た。 処置室の静けさの中で、吉川は千鶴に包帯を巻き直す。  かなり深く噛まれたその傷は、止血をしても尚、血を滲ませている。「千鶴さん、どうかしましたか? 痛みますか?」 「い、いえ、今声が聞こえたような気がして」 「声?」 彼女の唇はまだ震えている。精神的な動揺が消えないのだろう。  包帯を巻きながら、今日の出来事を思い出す。  あの肉塊。高校の時に見た、あれと同じような、それは怪異。  そして起き上がる死体。    だが吉川がもっとも慄然とした出来事は、その後に起こった。 あの後すぐに、吉川は林田と森谷の家を順に訪ねた。  美穗と健太の両親に、確認と報告をしなくては。  それは当然の義務であり、職務であった。 いずれの親も変わらぬ笑顔で迎え入れ、そして同じ言葉を返した。「うちには、最初からそんな子はおらんとですわ」 あまりに自然な調子に、背筋が冷たくなる。 やはり皆、揃って記憶を失っている。  ――こんなことが現実にあり得るのか。  いや、自分自身、二人のことを忘れていたのだ。  自分のことを頼ってくれていた、あの二人の子供を。  こみあがるような怒りを、吉川は冷静な仮面を被り押し殺す。「……千鶴さん。今のことは……誰にも言わない方がいい」 「でも……」 「村人に知られれば、混乱になる。いや、きっと“何もなかったこと”にされる。だから記録に残す。今は、それだけでいい」 吉川の声は低く、乾いていた。  千鶴はうつむき、しばらく沈黙してから小さく頷いた。「……わかりました。先生と、わたしだけの……秘密に」 互いの視線が一瞬だけ重なった。  その裏に潜むのは恐怖か、信頼か――。    千鶴を送り出した後、吉川はおもむろに引き出しから

  • にくゑ   第8章 忘れられた顔

     処置室の空気は焦げた甘い匂いで満ちていた。 炭のように黒く崩れた肉片が床に散らばり、まだ微かに燻っている。 吉川は息を荒げ、火傷した左腕を押さえた。皮膚が赤く爛れ、衣服に張りついている。「今のは一体……」 千鶴が唖然としたようすで呟く。 吉川は、机の縁に手をつき、深く息を吐いた。 左腕の火傷が酷く疼く。千鶴にお願いして、消毒と軟膏、そして湿潤療法での処理を終わらせ、包帯を巻いた。「ふぅ……」 治療を終わらせ、椅子に体を預けたその時。 窓の隙間から入ってきた風が、カルテ棚から一枚の紙を持ち上げた カルテはひらひらと舞い、机の上にたどり着く。「古い建物だから隙間風が――」 カルテの名前が目に入る。 ――森谷健太。 そうだ。 ――少年だったはずだ。確かに笑顔を見たことがある。 吉川は痛む腕に構うこともせず、カルテ棚を漁る。 目指していたものは、一番上に乗っていた。 ――林田美穂。 吉川は二つのカルテを並べ、穴が開くほどそれを見つめる。 森谷健太。 林田美穗。 その二つの名を並べた瞬間、喉がひきつるように動いた。 記憶が流れ込み、ようやく顔と名が重なる。 昨日まで確かにそこにいた子供たち。 診療所に二人でやってきた。そうだ、あの時は矢野さんもいた。  友人と並んで校庭を歩いていたはずだ。 畑の脇の道を歩いていた。診療所の前も、榊商店で並んでアイスを食べていた。「……なぜ……」 昨日まで机を並べていた子供たちが、いまここに遺体として搬送されている。 なぜ、自分は彼らを忘れていた? 突発性健忘症? こんなことがあり得るのか? 吉川は目を閉じ、震える息を吐いた。 記録だけが真実を証明している。思考が霧に覆われても、文字は裏切らない。 彼はカルテを握りしめ、立ち上がった。「行かなくては……確認を……」 吉川は声を絞り出すように言った。 眼鏡の奥で視線を鋭くし、火傷の痛みを無視して白衣の袖を整えた。 入院室――そこには少女の遺体が安置されている。 あれも記録しなければならない。忘れてはいけない。 廊下を歩く靴音が、異様に大きく響いた。 千鶴が後ろをついてくる。まだ足取りは震えていたが、視線だけは吉川の背を必死に追っていた。 入院室の戸を開ける。 千鶴が後ろに立ち、バーナーを抱えている。「先生

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status